新・あの人に聞きたい私の選んだ道
第4回
諏訪台中学校校長
清水隆彦さん
平成26年秋季号掲載
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PROFILE
現任校:荒川区立諏訪台中学校校長。教職35年目(教科: 数学)。都内の区立中学校、ギリシャ日本人学校勤務を経て 教職21年目で管理職となり、現在は校長2校目。元・全国 中学校進路指導連絡協議会 会長。平成23年度には 文部科 学省『キャリア教育における外部人材活用協力者会議』外 部委員を務める。

ゲストティーチャーで招いた漫画家に描いてもらった似顔絵が 校長室で出迎える。「男前に描くよう伝えたんですがね(笑)。」
転校を繰り返した小学校時代
 生まれは三重県の鈴鹿市です。衝撃的な記憶としては3〜4歳の頃に伊勢湾台風が三重を襲って家が水没し、自衛隊の船に乗って避難をしたときのことを強く覚えています。小学校の最上階にある体育館に泊まって、そこで卵に醤油を入れて飲んだ、という記憶がなぜか鮮明にありますね。
 父親は民間企業のサラリーマンで、家庭はいわゆる中流だったと思います。父親は転勤が多く、三人兄弟の末っ子として生まれた私は、父親が単身赴任している時期は母親と兄弟だけの家族構成の期間が長く、小学2年生の頃からは家族皆で父親の転勤先をついて回るようになりました。北海道、和歌山と移り住み、最後は横浜での暮らしとなります。ただ父親は赴任先からでも他県へと出張に出ることが多かったので、ひとつ屋根の下で全員が一緒に暮らす、というのは横浜に来た小学5年生頃からでしたね。今思えば父親も仕事で大変だっただろうなあと理解できるのですが、幼い頃はどうして家に父親がいないんだろうと寂しく思っていたこともあります。
 幸いにも転校先で友だちができずに悩むこともなく、その土地土地での生活を楽しんでいたように思います。最初の転校先の北海道でもすぐに雪中心の生活に慣れました。この頃は、動物が好きなので獣医になりたいと思っていました。将来は上野動物園に勤めたいという夢も描いていたのですが、いつからか動物が好きな気持ちはペットを飼うなどといった方向で発揮するべきで、好きなことを仕事にしてしまうのは何か違うのかもな、と考えるようになりましたね。
 5歳上、3歳上の兄とは同じ小学校に通う時期もありました。それなりに仲はよく、責任感の強い長兄と飄々とした次兄というふたりの要領が悪い部分をこっそりと観察し、自分は上手く立ち振る舞うという、三男坊ならではの要領がいい面もありました。


教職の道に目覚めた教育実習
 そんな日々でも、経済的な理由から塾や家庭教師のアルバイトをしていたのですが、この時間を心地よく感じている自分に気づいていました。ならば教職課程を取ってみようか、という程度の軽い気持ちでいたのですが、大学4年生になって中学校での教育実習があり、その中学校の移動教室にも参加したんです。中学時代の恩師がいる学校だったこともあり、特例で教員として移動教室に引率する中で非常に充実した経験をさせていただき、それまで描いていたスタジオミキサーの職よりも、教員が自分には向いているかもしれない、と急激に意識が変化しました。自分の力を、自分が思っている以上に出せて能力を発揮できるというような、ある種の魔法にかかったような体験をしたことで、これは自分の天職かなと強く意識しましたね。
 それからは迷わず教職の道に絞り、必死に単位を取得しました。しかし思い立ったのが遅かったこともあり、大学を卒業した時点ではすべての単位が取りきれず、免許取得まではもう1年費やすことになります。この1年間は、当時出会った幼稚園の園長先生からお誘いいただき、1年間の限定ながら幼稚園の先生として働くことになりました。この時代に男性が幼稚園に勤めるということはまず例がなかったように思いますので、ずいぶん画期的ですよね。幼稚園では体育指導員として正式に就職して、いわゆる『体操のお兄さん』として体操やプール、トランポリンなどを子どもたちに教えて過ごしました。この間に必要な単位も満たし、希望だった中学教員に合格しました。そこで幼稚園の卒園式の日に、自分が中学校へ行くことになったことを子どもたちに告げると、園児たち、特に女の子は皆泣いてくれましたね。



初任校で待ち受けていた校内暴力
 新規採用で数学教師として中学校に赴任した昭和50年代は、全国的に校内暴力の嵐が吹き荒れている時代でした。赴任した学校でもNHKのトップニュースになった学校放火に、生徒の暴力によりある教師は片目の視力を失う、またある教師は腎臓摘出手術と立て続けに大事件が起こります。私の人生の転機は、間違いなくこの新任1年目です。これ以上悪くないだろうという最悪の状況から私の教員人生が始まりました。
 放火の時は燃え盛る校舎に夜中到着して以来、火をつけた生徒が判明する2ヵ月半に渡り、独身だった私は学校に50泊以上する生活です。私は8年ぶりの新卒採用ですぐ上の教師ですら30代、当然自分が最若手だったわけですが、大学を出たばかりの私は生徒に舐められるようであれば、潔く教員を辞めようと決意していました。いつも辞表を片手に、生徒たちには時にボーダーラインとも思えるほどの厳しい指導をしましたね。
 そして嵐のような1年目が終わる頃、校長室に呼び出され、来年から生活指導主任をやってくれと打診を受けます。後で考えれば、放火が起きてマスコミに叩かれ続けるような学校の生活指導主任を受ける教師などいる由もなく、最後にお鉢が回ってきたのだろうと推測するのですが、当時の私はこれを意気に感じ、何とかしようと覚悟を決めました。それ以来2年目から10年もの間に渡って生活指導主任を担当しましたね。


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