新・あの人に聞きたい私の選んだ道
第3回
映画監督
清水崇さん
平成26年夏季号掲載
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PROFILE
昭和47年、群馬県出身。大学で演劇を専攻し、小道具や助監 督を経て平成11年に監督デビュー。翌年に脚本・監督を手が けた『呪怨』シリーズが話題となり、ハリウッドでのリメイク 版が全米興行成績No1を記録するなど話題を席巻。最新作は 角野栄子の名作を実写映画化した『魔女の宅急便』で、本作は 文部科学省がキャリア教育の理解・普及を図るため、様々なタ イアップを企画している。

「中学の頃には映画の道を志望していたので、弟には家業を継が ないと宣言していました。弟は今五代目を立派に務めています」
本好きで大人びた子ども時代
 昭和47年、群馬県前橋市の生まれです。市街地も近いのですが、家の周りは田畑が多く、舗装されていない道路脇を小川が流れているような、のんびりした環境でした。身体が小さい分負けん気が強く、ガキ大将的な存在で弟や妹、友だちと毎日遊び回っていましたが、その一方で本を読んだり映画を見たりという時間も好きでした。次第に、友だちと遊ぶよりも家で本を読んでいる方を好むようになりましたね。
 覚えているのは大人たちが話をしている時に、突然「それはこうじゃないの」などと口を挟み、驚かれることがありました。母親には「大人の話に首を突っ込むんじゃない」と注意されましたが、思春期には、母親の方から「崇はどう思う?」と話題を振って、私を「個」として扱ってくれました。それは感謝していますし、いわゆる反抗期にも、両親と大きな衝突はありませんでした。


父親の働く姿に抱く威厳と憧れ
 父親は100年以上続く畳屋の四代目です。営業仕事もあるので人付き合いはいいのですが、基本は無口で必要以上に話さない。そんな父親に威厳を感じて怖かったですね。一方母親は口うるさくも優しい、そんな家庭に育ちました。
 工場が住居に隣接しており、父親が職人さんたちと働く姿を目にしていたので、働くこととは汗を流して物を作ったり、運んだりすることだと考えていましたし、仕事をしている父親の姿に憧れ、幼い頃は畳屋を継ごうと考えていました。
 小学生の頃は人気漫画の模写をしたり、オリジナル作品を描いたりしました。作品は親や弟たちに読ませたり、中学生の頃には友だちと競作もしましたね。絵の抜群にうまい友だちと、ひとコマずつ交互に漫画を描き、相手の構図や展開に刺激を受けたこともありました。
 映画はジャンルを問わず好きでした。小学校高学年になるとアクション作品、特に香港出身のカンフー映画俳優、ジャッキー・チェンに夢中になりました。私がジャッキーの映画を見に行ったと知ると、弟は家のどこかに隠れるんです。すっかりジャッキー気分の私に見つかると、弟の恐怖の時間が幕を開けます(笑)。今なおこの頃の恨み言は言われますね。



人生の転機となったSF大作
 初めて「映画監督」を意識したのは、10歳の時に見たハリウッド映画の『E.T.』がきっかけです。この作品は主人公が同じ年齢ということもあり、本当に心に沁みました。当時はビデオやDVDはなく、映画を見るには乏しい小遣いを使うか、大人に連れて行ってもらうしかありません。何度も同じ映画を、という選択肢はないので、誰か親戚が来る度に『E.T.』はまだ見ていないからと嘘をつき、何度も何度も見ました。寅さんシリーズしか見ない父親も「2度連れて行かされた」と嘆いていたくらいなので、相当な熱い思いですよね。
 パンフレットを家でじっくり読んでいると、映画には出てこなかったオジさんが何故か掲載されています。これは誰だと思うと「監督」とあり、この人が作っているんだ、凄いな! と思いました。映画監督という存在を知った瞬間です。
 中学生の頃には家庭用のホームビデオ、デッキやカメラが出始めました。すっかり映画に取り込まれた私はビデオ研究会を創部し、主役の生徒会長に間抜けな格好をさせた『会長マン』という作品を撮影しました。先生など大人たちに受けがいい生徒会長を笑い者にしてやろう、という私の負けん気、反骨精神が溢れた監督デビュー作です。
 学校の勉強はまずまずでしたが、教科の中では特に美術が好きで、得意でもありました。後で知るのですが、中学校卒業の時期に美術の教師が親に、私が美術の方向に進むつもりはないかと打診したそうです。本人の意思があるなら力になると言う教師に、親は好きなことをさせたいと断ってくれたと聞きました。親には感謝しています。
 実はこの頃、私は担任に「映画の仕事をしたい」と本気で相談したことがあります。しかし担任は「まあ…夢をもつことはいいことですね」といった感じで、絵空事を語っているとしか受け止めてくれていないと私は感じました。他にも、興味があることには何でも手を出す私に「何でもやりたいという人は何も掴めないよ」という教師もいましたね。この否定的な言葉に、持ち前の負けん気に火がついて、以来夢はむやみに人に語るのではなく、自分の力で実現させてやろうと腹を決めました。


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