第46回
囲碁棋士
梅沢由香里さん
2003年7月号掲載


PROFILE
囲碁棋士/五段(財団法人・日本棋院)。一九七三年,東京都に生まれる。六歳の時に父親と囲碁を始める。一九八五年,全日本女流アマチュア選手権八位。一九八七年,加藤正夫九段に入門。同年,日本棋院の院生となる。一九九二年,慶応義塾大学環境情報学部に入学。一九九三年,日本棋院の院生卒業。一九九四年,全国本因坊戦東京都大会(男女混合戦)優勝。一九九五年,女流棋士特別仮採用試験(プロ試験)合格。一九九六年,大学卒業,入段。二〇〇二年,五段に昇段。テレビの解説やラジオのパーソナリティ,入門書や子ども向けの漫画「ヒカルの碁」の監修など幅広い活躍で知られる。

「勉強は算数が得意でした。父から『算数ができないと碁は強くなれない』ということを言われていましたね」
囲碁との出会い
 囲碁をやるようになったのは,六歳の時に父に連れられて近所の囲碁教室へ行ったのがきっかけです。父も囲碁は全然わからず,私といっしょに本を見ながら始めました。父がとてもうれしそうな顔をして,買ってきた碁のセットをプレゼントしてくれたのを覚えています。とにかく私は碁を見たのも聞いたのも初めてだったので,なんとなくわけのわからないことをやらされてしまったなという感じでした。今は小学生の間で碁がブームになっていますが,当時は同級生で囲碁をやる子はいませんでした。私の通っていた囲碁教室でも女の子が最初はひとりかふたりぐらいでした。
 囲碁の他にピアノや水泳,書道なども習っていましたが,どれも親に勧められてなんとなく始めたという感じでした。習い事は友達ができてそれなりに楽しかったのですが,練習が嫌でしたね。今でも練習は,なんでも嫌いですけど(笑)。
 囲碁教室は毎週末に必ず行っていました。父は碁の成績にはとても厳しかったです。最初,家では碁の勉強をしていなかったのですが,小学校三年生ぐらいから父のほうがだんだん熱心になってきて,「一日二時間は勉強しなさい」と言われるようになりました。それで,しかたなくやっているフリをしていました(笑)。結構,苦痛でしたね,その二時間が。時計を見ても「まだ五分しかたってない」なんて,しょっちゅうでした。
 練習も嫌でしたが,負けるのもとても嫌でした。とにかく小さい時から負けず嫌いでしたから,負けるととてもくやしがりました。
 さらに,いろんな碁会所へ父に連れて行かれたのですが,新しくいろんな人と知り合うのも嫌で,小さい時は人見知りでした。でも,そのおかげで今では初対面の人とは全く平気になりました。
 学校はあまり好きではなかったです。いわゆるまじめな優等生だったかもしれません。当時の私は,大人社会である程度,碁をやっていたというのが自信になっていたと思います。それはすごく大きかったです。どこかで心のよりどころになっていました。ただ今思えば,もっと遊んでおけば良かったかな,という気もします。


将来の夢は「大金持ち」!?
 小学校五年生の時に「二十一世紀の私への手紙」という企画があって,その当時に書いたものが,昨年,私の手元に届きました。開けてみたら「囲碁のプロと大金持ちになる」と書いてあったのです(笑)。なぜ大金持ちと書いたのか,自分でもよくわからないのですが,なんとなくご飯が食べられないというようなことで悩むのが嫌だなと思った記憶があります。かわいくないですよね。
 十二歳の時に全日本女流アマ選手権で八位になりました。でも,自分の中では物足りないという思いがありました。小学校時代にもう少し結果を出していてもおかしくなかったですし,大人といっしょの大会でしたが,自分では図々しくもそれが当たり前だと思っていました(笑)。それだけ自信があったということでしょうが,謙虚さが足りなかったですね。後に,自分はたいしたことがないということを思い知るのですが……。
 十四歳の時に加藤正夫九段に師事し,プロの養成機関である日本棋院の院生になりました。院生になるには書類審査があって,その上で試験囲碁といってプロ棋士と対戦して見込みがあると思われたら入れる,という仕組みです。院生はAクラスからEクラスまであり,一クラス十人ぐらいですが,毎月,リーグ戦をして上位四名が上のクラスへ,下位四名が下のクラスへ行きます。ですから,一ヵ月ごとに順位が変わります。その頃は師匠の元へ週三回通って,土日は院生対局,水木は日本棋院で行われているプロの対局を見学に行っていましたから,一週間「碁漬け」でした。


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