第26回 芸能リポーター 梨元 勝さん

「芸能リポーター」という言葉は,ぼくの造語です。すっかり日本語に定着してしまいました
生徒会と自治会は似て非なるもの
 四年間の高校生活を無事に終え(?),何とか法政大学の社会学部に補欠入学することができましたが,これはたまたま勘が当たったんです。苦手だった英語の試験で英文和訳の問題があったんですが,まったくのチンプンカンプン。知ってる単語が「私」「戦い」「花」の三つだけ(笑)。それでも何とか答えを書かなければいけない。
「私は兵士だ。戦いで死んだならば,勇敢に戦って死んだということで,柩の上には花を飾るのではなく,剣を置いてくれ」
 まるで落語の三題噺のように創作したところ,これが驚いたことにパーフェクト(笑)。演劇部での活動も無駄じゃなかったわけです。ちなみに演劇をやっていてよかったと思うことがもうひとつありまして,隣りの女子高との演劇交流を通して彼女ができたことです。今の女房ですが(笑)。
 やっとの思いで入れた大学でしたが,学生生活は最悪でした。入学早々,「誰か自治会の委員に立候補してください」と自治委員が教室に勧誘に来たんですが,のんきなぼくは「はい!」と手を挙げてしまった。高校の生徒会の延長線ぐらいに考えていたんです。「なかなか君は見どころがある」と,そのときほめてくれたのが現評論家の小沢遼子さん(笑)。が,高校の生徒会活動とは大違い。学内ではさまざまな党派が入り乱れての勢力争い。デモに行けば行ったで機動隊員に足を思い切り蹴飛ばされる。子どもの頃からおまわりさんに憧れていたぼくにとっては,蹴られた足の痛みよりも心のショックのほうが大きかった(笑)。それに半年も自治委員をやっていると,自治会側にもロクに理論なんていうものがないことにも気付いてくる。そこで「自治委員を辞めます」と一方的に宣言して自治会活動から足を洗ったわけですが,こちらが宣言したからと言っても,すんなり認めてくれるわけでもない。オルグは毎日のように続く。さすがのぼくも嫌気がさした。大学には卒業するのに必要不可欠な授業のある日だけ顔を出すこととし,後はもうひたすらバイトとマージャンに打ち込む日々でした。


文章嫌いが記者になる
 卒業が近づいてきたある日のこと,「ぼくにとっての大学って何だったんだろう」と考えたんです。書店にある大学案内のパンフレットなんかには,ブックバンドを抱えた大学生の男女が芝生に座って談笑している写真なんかが載ってるじゃないですか。あんな生活は一度もない。思い出は学生運動とアルバイトとマージャンだけ(笑)。
「いやだ。このまま卒業したくない。もう一度,大学生活をやり直したい」
 早速調べると,法学部の政治学科には無試験で学士入学できることがわかった。ところがこのアイデアを松竹で助監督をしていた先輩に話したところ,頭から怒鳴りつけられた。
「おまえがここまでくるのにおじいちゃんがどれだけ苦労したと思ってるんだ。一日でも早く孝行するのがおまえの役目だろ。就職先くらいはおれが世話してやるからさっさと卒業しろ」
 こうして先輩が世話してくれたのが,講談社の「ヤングレディ」のデータマンとしての仕事だったんです。ところがこちらは文章なんて書いたこともない。卒論すら文学青年の友人に頼んで書いてもらったくらいなんです(笑)。取材してきても,それをどうマス目に表現していいかわからない。おまけに漢字もよく知らないわけです。ぐずぐずしていると,「梨元,全部平仮名でいいから早く書け。それも無理なら見てきたことをここで話せ」なんてアンカーマンからどやされる。「梨元は角川の辞書をツノカワと言った」なんて伝説も残っていますが,これはもちろんガセネタです(笑)。ただ,それくらい出版の世界とは無縁の人間だったことは確かです。当時の「ヤングレディ」には,立花隆さんや鎌田慧さんなどの,後に錚々たるジャーナリストになる人たちが大勢揃っていて,公私にわたって勉強させていただいたことだけは,ぼくにとっての財産ですね。


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