第26回 芸能リポーター
梨元 勝さん
2001年11月号掲載


PROFILE
なしもと・まさる 昭和十九年十二月一日東京都中野区生まれ。四十三年法政大学社会学部卒業。講談社「ヤングレディ」の取材記者を経て,五十一年からテレビ朝日系「アフタヌーンショー」の芸能リポーターとして活躍。持ち前の行動力で「芸能界の突撃男」と呼ばれる。五十五年フリーとなり,株式会社「オフィス梨元」を設立。現在,テレビ,ラジオ,新聞,雑誌,インターネット等あらゆるメディアで幅広く活躍中。平成十二年函館大学客員教授に就任。一般教養科目「芸能社会」を担当。「噂を学ぶ~学問としてのスキャンダル~」「梨元にいいつけるぞ」「芸能界とってもいい話」「腰の低い人,頭の高い人」など著書多数。1991年度日本流行語大賞特別賞受賞。

京都への修学旅行には二回行った。二度目はほとんど観光案内役でしたね(笑)
ママゴト遊びが好きだった
 ぼくは終戦の前年に生まれまして,時局柄か「勝」という名前を付けられました。最近,中学や高校の同窓会に出てしみじみ思うのは,「勝利」とか「勝子」など,「勝」の文字を組み込んだ名前の圧倒的な多さですね。
 ぼくが生まれたときには父親は戦争に行ってまして,そのまま帰還することなく戦死してしまった。もちろんぼくの顔も見ていません。おまけに母親ときちんと入籍していなかったんですね。そのため,ぼくは戸籍上は母方の祖父の五男ということになっているんです。これは中学生のときですが,授業で履歴書を書く練習をさせられたんですが,一体全体どう書いていいものやら大変困ったことを覚えていますね(笑)。
 戦後,母親が会社勤めを始めたのにともない,ぼくは埼玉の祖父母の許で暮らすことになった。しばらくして母親は歯医者さんと再婚することになるんですが,あちらの家庭にも子どもがいるわけです。親同士は何とか仲良くさせようとふたりを会わせるんですが,ぼくはその度に向こうの子どもをいじめてしまう。「母親を取られた」といったような反発があったんだと思います。そんなこともあり,結果的にはずっと祖父母の許で育てられることになったんです。
 祖父母の愛情を一身に浴びて育ったわけですが,ある意味では過保護の権化みたいなものでしたね。未だに覚えていますが,みんなで馬跳びをしていると,おばあちゃんが飛び出てきて「危ない遊びはやめなさい。首の骨でも折れたらどうするの」とまわりの友人も含めて怒っちゃうわけです。そんな場面が何回か繰り返されると「勝はだめだ。あいつがいるとおばあちゃんがすぐに口を出してくる」ということになり,男の子たちは自然とぼくと遊んでくれなくなる。そんなこともあって女の子と遊ぶことが多かった。現在のぼくからは想像もできないでしょうが,玩具屋に行っても,真っ先にママゴト遊びセットをねだるような子どもだったんです(笑)。

生徒会と演劇活動に明け暮れる
 小・中学校と成績も良く,真面目でおとなしかったぼくの性格が百八十度変わったのは浦和西高校に入ってからです。この高校は大変リベラルな学校で,校則から何からすべてを生徒会で決めさせてくれる。また先生方にもそれを応援してくれるような雰囲気があったんです。その自由の風にすっかり舞い上がってしまい,振り返れば,まったく勉強もせず,生徒会と演劇部での活動に明け暮れた三年間,いや四年間でした(笑)。
 落第の理由ですが,二年の前期試験の数学が零点で,後期試験も同じく零点。英語もダメ。それでぼくを含めた幾人かが,二年生をもう一度やり直すことになったんです。大学だったら落とした単位だけをやり直せばいいわけですが,高校はすべてをやり直さなきゃいけない。これは本当に憂鬱でした。新学期になり,新二年生のクラスに朝,意を決して行ったところ,生徒会の後輩が声を張り上げた。
「みんな静かにして。生徒会からの連絡です。さあ,どうぞ梨元さん」
「いや,違うんだよ。今日からぼくはこのクラスなんだよ」
 教室中がシーンとなりましたね。それでもみんなやさしくて,「梨元さんの席はやはり一番後ろだろう」とか,訳はよくわからないんですが結構気を遣ってくれました(笑)。
 この年は祖母に続いて,母も嫁ぎ先で亡くなるなど,落第に身内の死と三重のショックで,大きく心が揺れ動いた一年間でもありました。

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