第13回 紙切り芸人 林家正楽さん

襲名披露の手拭いのイラストは山藤章二画伯から贈られたもの
最初の宿題は馬だった
 ひらめいて紙切りの道に入ったわけですが,もともとぼくは不器用なほうなんです(笑)。工作なんてまるでダメですからね。ただ絵を描くのは子どもの頃から好きでした。小学校の一年から三年まで絵画教室にも通っていたくらいです。もっともそれは母親に無理矢理通わされていたんですが(笑)。絵にしても好きなだけで,きれいに描けるわけじゃない。
 だから最初は大変でしたよ。紙切りの稽古というのは下書きしたものをハサミで切るわけじゃなくて,最初から紙にハサミを入れつつイメージした形を切っていくんです。うちの師匠が最初に馬を切ってくれて,これと同じように切れるまで稽古してこいって渡されるわけです。それを家に持ってかえって,何とか似たような形になるまで切るわけです。高い紙なんて使えませんから広告のチラシや古いカレンダーを集めてきては切っていました。どんなに必死に稽古してもなかなか師匠のようにはいかない。その頃は最初の会社に勤めながらですから徹夜で切っていました。昼間は眠くて仕事どころじゃありませんでしたね(笑)。
 何とか馬が切れるようになって師匠のところに持っていくと,つぎはタヌキやウサギの紙切りを渡され,これを切れるようにしてこいと宿題を出される。動物からスタートして藤娘,弁慶に助六,横綱土俵入りと,ひとつをクリアするたびにより高度な宿題を出される。ひたすらその繰り返しです。どんなに自分ではよくできたと思って師匠のところに持っていっても,よくできたなんてほめられたことは一度もありません。
 実際,師匠のものと比べると全然ちがうと自分でもよくわかるんです。いまでもそうですが「これはうまく切れた。傑作だ」なんて思って棚の上に置いていても,一週間もするとまったく気に入らなくなる。なんでこんなものがいいと思ったんだろうと自己嫌悪に陥るんです(笑)。まあ,その繰り返しで人間は進歩するんでしょうね。これが最高だなんて思ったら芸人は終わりですよ。

紙切りは時代を反映する
 初舞台は昭和四十五年ですね。弟子入りして四年目のことです。そのとき,たまたまうちの師匠の仕事が重なってしまったんです。それで片方の仕事をやってみろと。仕事をするなら名前がなければいけないというんで林家一楽という名前をもらってきてくれました。仕事が重なったからなんていってましたけれど,照れ屋でやさしい師匠のこと,心の中ではそろそろいいと認めてくれたんだと思います。  初舞台の前にアドバイスされたことは「下品なものは切るな。品格を持て」ということだけでしたね。初舞台はまったく覚えていません。ぼくはあがり症で,いまでもよくあがるんですが(笑),本当に覚えていないんです。そのとき一緒に行った芸人さんたちのことは覚えているんですけどね。失敗はしなかったと思います。何とか切り抜けたんじゃないでしょうか(笑)。それからは日曜日ごとに舞台に立つようになって,二年後にはバイトを辞めて紙切り専業になりました。
 紙切りという仕事はお客さんの注文で切りますから,時代時代が反映します。パンダが日本に来たばかりの頃は,寄席の注文はパンダばかりでしたね。エリマキトカゲが流行ったときはそればっかりになる。寄席にあまり来たことのない団体さんばかりのときも困っちゃう。最初に馬を切ったとすると,つぎに牛や豚という注文が来て,最後はニワトリとかね(笑)。「まあ,いいんですけれどお客さんもったいないよ」と一応声はかけるんですが。おかげで上野動物園にはよく通いました(笑)。
 いま流行っているのはポケモンですが,ポケットモンスターって二百五十種類ぐらいいるんです。とてもじゃないが全部は覚えられませんよ(笑)。子どもの注文が一番大変ですね。以前,スーパーカーブームがあったときも困りました。こちらはスーパーカーとしかわからないじゃないですか。ところがマニアの子どもたちはそれぞれの車の細部まで知っていますからね。こちらも必死で車雑誌を見ながら覚えましたよ。その点,ドラえもんはえらい。二十年以上注文が途絶えることがないですからね。
 最近ではリストラなんていう注文もあります。そういうときはリスとトラを切ったりね(笑)。つい先日は土井たか子さんの目の前で土井さんを切りましたが,本人の目の前で切るというのも緊張しますよ。

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