第9回 フリーアナウンサー 井口保子さん

最近の騎手はジャニーズ系でかっこよくなりました
日本初の女性競馬実況アナを目指す
 そのうちに「これほど面白い遊びを仕事にすることができたらどれほど楽しかろうか」と思うようになったんです。ラジオ日本では競馬放送がありましたから。もちろん男性アナウンサーが担当していました。一念発起した私は会社に競馬アナウンサーとしてチャレンジしたいと頼み込んだんです。しかし,アナウンサー仲間も含めて周囲は猛反対。女性がやる仕事ではないと。
 それでも私はあきらめませんでした。空いてる時間を見つけては競馬場に直行です。自腹でピンマイクにカセットレコーダー,双眼鏡も買いました。放送席に入るとスタッフの人たちのじゃまになりますから,一般席での観戦です。そこで双眼鏡をのぞきながら実況中継の練習をするわけです。まわりのお客さんはいったい何をしているのかと不思議だったと思います(笑)。それで録音したテープを家に持って帰って聞き直すわけですが,最初のころは「なんてヘタなんだろう,これじゃ人様には聞かせられないな」と正直思いましたね(笑)。でも,それくらいでへこたれる私ではありません。日夜,実況中継の練習をつづけました。車の走るスピードと馬の走るスピードはほぼ同じくらいなんです。それで走る車を馬にたとえて実況中継なんかもしましたね。
 そうこうするうち,私と一緒に長年音楽番組を担当していたディレクターが競馬の担当になったんです。捨てる神あれば拾う神あり。そのディレクターが「日本初の女性競馬実況アナウンサーというのも面白い。ひとつやってみるか」といってくれたんです。ディレクターとしては聴取率アップのための話題づくりという側面もあったと思いますね(笑)。

各馬横一線ではなかった
 昭和四十六年,念願かなって初めて競馬場の放送席に座りました。ハイセイコーが現われる二年も前のことです。もう心臓が口から飛び出しそうでした。マスコミもたくさん取材にきていましたね。作家の山口瞳さんや大橋巨泉さんもお見えになっていて,文芸春秋のグラビアでも日本初の女性競馬実況アナということで七ページに渡って取りあげられた。それだけ競馬界にとっては大きな出来事だったのでしょう。人生後にも先にもあれだけ緊張したことはありません。
 双眼鏡をのぞきながら実況するわけですが,すべての馬が横一線に見えるんです。それで「各馬横一線横一線」とだけ叫んでいた。ゴールの近くまできて初めて双眼鏡をパッとはずしてみたら,これが横一線じゃなかった。「うわーっ」と思ったけれど,「ゴールイン」まではなんとかいい切りました。ラジオで聞いていた人たちはやきもきしたと思います(笑)。終わったあとの反響もすごかった。女性の声なのでびっくりしたという人が多かったですね。その日は聴取率がとても高かったせいもあって,いまだに「井口さんの初放送を聞きましたよ」と声をかけられることがあります。  
 以来二十数年,土曜,日曜は一日も休まずにマイクに向かってきましたが,緊張感がなくなるということはなかった。私は音楽番組やトーク番組ではまったく緊張しないんですけどね。台本のないドラマという点では競馬も野球も同じですが,野球中継だったら「打ったー大きい大きい,ホームランかホームランか,捕ったー」でもお客さんは怒らない。損するわけじゃないですからね。ところが競馬ファンはお金をかけている。気の早い人だったら負けたと思った瞬間に馬券を破り捨ててしまうから,間違いは許されません。馬の走る速度は千メートル約六十秒。最後の十秒ぐらいの攻防を,ラジオのアナウンサーは言葉を縦横に駆使してリアルに伝えなければならない。まさに瞬時の勝負なんです。  
 だから放送終了後は開放感からか無性に一杯飲みたくなるんです。日本中の競馬場の近辺にある飲み屋さんは顔パスですね。仕事をばーっとやって,その後はばーっと飲みに行く。私,しぐさは女っぽいといわれますが,生き方は男なんですよ(笑)。

競馬は人生そのもの
 実況中継以外にもいろいろやりましたね。女性のための競馬教室なんかも私のアイディアで始めましたし,「調教だよりジョッキールポ」というコーナーを作って,調教後に騎手の方に「今日の手応えはどうですか」なんてマイクを持っていってインタビューしたのも私が日本で最初です。それまでの競馬放送といえば実況中継以外,ただスタジオの中で延々と予想するだけだったんですから。これには私の意地もあったんです。競馬番組における女性アナウンサーは刺身のつまだって思われていた時代ですから。だったら女性らしい細やかな感性を生かして聴取者に喜ばれる番組を作っていこうと。新企画はみんな大成功でした。
 私は「逃げ馬」が今も昔も大好きなんです。これまでの人生,経済的にも実生活の面でもいろいろ挫折もあったけれど,私は絶対に後ろを振り返らないようにしているんです。人生は前進あるのみと思っていますから。逃げ馬は前しか見ていないんです。だから力のかぎりに逃げる馬を見ると,「逃げろ逃げろ」と応援してしまう(笑)。競馬はまるで人生そのものなんです。レース途中で骨折する馬もいれば,骨折から立ち直ってG1レースを勝つ馬もいる。競馬ファンはそれぞれの馬に自分の夢をかけているんです。自分の人生は一回こっきりだけど,好きな馬に託せば何度でも人生を生きられますからね。私の人生もこれからです。いつどこでどんな出会いがあるかわからない。競馬場で恋が芽生えるかもしれませんからね(笑)。まだまだ仕事にも恋にも全力疾走したいと思っています。
  
(構成・寺内英一/写真・藤田 敏)
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