第5回 イラストレーター 長尾みのるさん

手がけたカバーイラストは千冊を超えました
ブラジル行きを決意する
 研究所を卒業することになりましたが、やはり舞台美術だけでは食べていけない。そこで洋裁学校で西洋服装史を教えることにしました。戦後、洋裁学校の創設がブームで、学校としての格好をつけるためにも、そういう授業が必要になったんです。飛び込みで自分を売り込み、三校ぐらいの洋裁学校をかけもちしていました。生徒はみんな女性ですし、年齢もぼくと変わらない。教壇に立つと、「まあ、かわいい」なんていわれ、慣れるまでは本当に恥ずかしかった(笑)。
 そんなのんびりとした生活を送っていたある日のこと、舞台美術の仲間だったFがやってきて、一緒にブラジルに行こうといい出した。話を聞くと、山本喜誉司というブラジル日系人会長という偉い人が来日している。その人に頼んでブラジルに渡ろうというんです。元来、好奇心旺盛なぼくですから、意気投合し、明朝約束もなしにふたりでホテルを訪ねたら、これが会ってくれたんです。話をすると、「それは面白い、これからの日系社会には君たちのような芸術家も必要だ。私が保証人になってあげるからぜひブラジルにいらっしゃい」と。後でわかったことですが、この山本さんは芥川龍之介のいとこで東大も一緒、三菱商事の礎を築いた人でもあったんです。しかし、それからが大変でした。日本の国益になるという理由がなければ海外に出してもらえない時代です。パスポートを取るために一年かかりました。

絵の行商をしながらの生活
 出航の際は、洋裁学校の女生徒が大勢見送りにきたものだから、他の乗客がいったい何者かとぼくの顔をしげしげと見ていましたね(笑)。途中、アメリカに停泊した際、ロサンゼルス市内を散策したんですが、自家用車がばんばん走り、いまでいうドライブスルーのお店があったりと、その豊かさに圧倒されました。同時に、バスに乗るのもトイレに入るのも我々有色人種には専用の場所が決められていたりと、アメリカという国の暗部も身を持って実感させられました。
 ブラジルでは、サントスに上陸し、そこで出会った親切な日系新聞の記者の車でサンパウロに入ることができた。しかし、着いたはいいけれど行くあてもない。当日は、その記者の家に泊めてもらいましたが、いつまでもやっかいになるわけにはいかない。翌日、近くの劇場に飛び込み、看板描きの仕事をつかみ、近くに下宿先も見つけました。とはいえ、すぐにお金がもらえるわけじゃありませんから、毎日バナナばかり食べていました。
 徐々に日系社会に親しんでいくうちに、大変な騒動に巻き込まれもした。ブラジルでは勝ち組と負け組がいまだに張り合っていたんです。あるパーティーに招待された時のこと、軍歌の大合唱になった。その中に「愛国行進曲」という長い歌があるんですが、この歌は日本ではあまりヒットせず、ぼくたちはすべて歌えなかったんです。口ぱくでごまかしていたんですが、勝ち組の青年団員にめざとく発見され、「この歌が完全に歌えないのは日本人じゃない。おまえたちはアメリカのスパイだ」とつるしあげられた。現地で封切られた映画『ひめゆりの塔』も、アメリカの謀略映画だと糾弾されたくらいです。日本領事館が勝ち組の青年たちに襲撃されるといった事件も起きた。嫌気がさしたぼくたちは日系社会に距離を置くことにし、絵を大量に描いては汽車に乗り、ブラジル中を行商することにしました。ブラジルには大金持ちの大農場主が結構いて、絵が高値で売れたんです。やがてふたりは別々に旅をしては稼ぎました。その間、ブラジル女性との燃えるような恋など、楽しいエピソードもありますが、その話はまた別の機会にしましょう(笑)。

日本に帰ってきたら有名人
 友人のFをブラジルに残し、ぼくは稼いだお金でもってヨーロッパに渡り、ひとり旅をしてから日本に帰国しました。ところが帰ってみたら大騒ぎ、新聞・雑誌が取材にくるわ、NHKのラジオに出演させられるわと、一躍、有名人になってしまった。それだけ海外旅行が珍しかった時代だったんです。そんなインタビューのときに「あなたの仕事は何ですか?」と聞かれ、はたと困ってしまった。画家というのも偉そうだし、そこでアートディレクターと名乗ってみたんです。それが評判になった。日本にはそんな肩書きを持っている人はいませんでしたからね(笑)。実際に帰国後、完成したての国産カラー印画紙を使い、初のカラーフォト・デザイン展も銀座で行いました。そんな中、「絵も描けるんだったら小説の挿し絵も描いてみない?」との依頼もあり、『週刊サンケイ』で小説の挿し絵を描き始めたんです。
 しばらくして、まだ無名だった永六輔さんから電話が入った。「ぼく今度『アサヒグラフ』に小説を連載するんですが、その挿し絵を描きませんか」と。ぼくはすぐに承諾したんですが、これが朝日新聞社内部で問題になりそうだった。「永六輔という若造に小説を書かせるだけでも大冒険なのに、そこへもってきて長尾のようなわけのわからないやつに挿し絵を描かせるとは何事か」というわけです。当時の大新聞社の発行物には錚々たる画壇の大先生が挿し絵を描いていたんです。しかし、ぼくも引き下がらない。「画家としては新人だが、イラストレーターとしては新人ではない」と。本来、イラストレーションとは、ある現象を文字を使わずに絵画的説明をしたもので、厳密にいえば写真もイラストレーションなんですが、これには担当者も面白がってくれて、「それはいい、連載では挿し絵とせずにイラストレーションとしよう。ただちょっと長いのでイラストというのはどうだろう」と。この連載は日本で初めて「イラスト」という和製英語が活字になった記念すべき出来事でもありました。これ以降、みんながこの言葉を使い始め、功罪はともかく、この和製英語はすっかり日本に定着してしまいました(笑)。

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