学校が突然崩壊。友情、恋愛、いじめ、家族……それぞれに問題を抱えた生徒や教師が生と死のはざまで見つけたものは――感動の傑作サバイバル小説。「心に突き刺さる、極限状況の青春小説。ほんとうのヒーローがここにいる」と大森望さん(書評家・翻訳家)も絶賛!

『ガレキノシタ』刊行記念エッセイ
ガレキノシタの生活/ 山下貴光

2012.07.17

この作品を書きはじめたのは、六年ほど前になる。
慎重に記憶をたどらなければ思い違いをしてしまいそうなほど時が経過した。

筆を下ろすきっかけとなったのは、一九九五年に韓国で起きた三豊百貨店崩壊事故だ。事故のあらましは情報として頭の隅に残ってはいたが、その当時は聞き流すだけで話題にもしなかったように思う。

覚えている人も多いだろうが、大変な惨事だった。六月の午後五時過ぎ、地上五階、地下四階という百貨店が突如として倒壊した。営業中の店内には多くの客と従業員がおり、死者五百名以上、負傷者九百三十七名という大きな事故となった。

そんな出来事のことなどすっかり忘れていた私は、それから数年を経て、テレビを観ている時に再びその事故のことを思い出すことになる。画面には崩壊事故の再現ドラマが流れていた。

そういえばそんなこともあったな、と時間を潰すようにぼんやりと眺めていたのを覚えている。けれど、次第に興味を惹かれ、気づくと瞬きを忘れていた。何の番組だったのかは忘れたが、面白かった。

瓦礫の下に閉じ込められた人々の物語だ。
そこには運よく空間があり、重大な傷を負うことなく、命を拾った者たちが横たわっている。番組はドラマチックな展開で、奇跡の救出劇が繰り広げられた。すべてが真実なのかは分からないが、疲れを知らない屈強な韓国の救助隊員には感服させられた。

といっても、なにも奇跡の物語を書こうと思ったわけではない。筋肉質なハリウッド俳優が主役を張り、奇跡の脱出劇を主軸に置いた映画を観るのは個人的には好きだが、そうではない。

瓦礫の下で彼らは何を思い、何を考えていたのか。気になったのはそれだ。

彼らは絶望的な状況下で、恐怖、死、悲運など、様々な思いに駆られたことだろう。
この先の未来を諦めることもあったかもしれない。

大事故や災害は一瞬にして生活を奪い、時間を止める。行動だけではなく、思考さえも悲劇によって制限される。正常な精神を保てずに壊れてしまう可能性もあるだろう。

確かにそういう側面もあるのかもしれない。しかし、はたしてそれだけだろうか、との疑問が湧いたのだ。韓国の崩壊事故で救出された者の中には瓦礫の下で童謡を口ずさんで気を紛らわせていた者もいたらしい。大切な人との会話を想起し、それを励みにしながら強い気持ちを保っていた人物もいたそうだ。

瓦礫に閉じ込められ、悲劇に見舞われた彼らではあるが、そこで先ほどまでつづいていた生活がなくなってしまうわけではない。最悪の状況に陥ったとしても、日常は途切れることなくつづくのだ。瓦礫の下にも生活がある。

身近な人たちへの思い、胸に抱えたままの苦悩や迷いをその一瞬で断ち切ることはできない。どんなに大きな不幸が襲いかかろうと、そんなことは不可能だ。彼らは悲劇の象徴ともいえる巨大な瓦礫と向き合いながらも生活をつづけ、抱えたままの問題や自分自身とも向き合ったのではないか。

私はそんなことを想像した。自分ならどんなことを考えるのだろう、と思いを巡らせたりもする。(家族のことや遣り残したことを思い浮かべるのか……)そして、そういう物語を書きたくなった。

舞台は、日本のどこかにある高校。午前十一時三十分、学校の校舎が倒壊する。つい数分前まで授業を受け、友人と語り合っていたはずの彼らは否応なしに瓦礫に囲まれ、自分ではどうしようもない状況に追い込まれる。

男子生徒、女子生徒、そして教師。性別も年齢もばらばらだ。彼らは喉の渇きに耐え(韓国の崩壊事故では水に浸したダンボールを食べた者もいたそう)、救助を待ちながら、今まで目を逸らしがちだった事柄と向き合わなければならない状態になる。立ち向かわなければならない状況、といってもいいかもしれない。

ある者は単独で、ある者は複数で瓦礫の下に閉じ込められる。友人、兄弟、相容れない者同士など、彼らは自分自身と、または隣人と話をはじめる。それぞれが何かに気づき、何かを得ればいいな、という心情で物語を進めた。

そのあたりのことが伝われば嬉しい。

少しだけ話が脱線する。

縁があって『ジェイ・ノベル』にこの作品を連載させてもらっていた昨年の三月、ちょうど最終話の推敲をしている時だったと記憶している。それが起こった。

東日本大震災。
たまたま点けていたテレビから、その一報が流れたのだ。
無残に倒壊した建物、津波によって押し流される町、次第に明らかになる被害の規模に唖然とし、胸が痛くなった。仕事の手を止め、信じられない映像をただじっと見つめるしかなかった自分が情けなく思い出される。

瓦礫の広がる町並みを目にし、自分の小説と重ねずにはいられなかった。瓦礫の下に多くの命が取り残されているのではないか、と早急な救助を祈った。

けれど、伝えられる情報は目を背けたくなるものばかりで、心痛は増すばかり。
今でも思い出すと、胸が張り裂けそうになる。

そして、時間が経過するに従って、報道は震災直後とはまたべつの問題を伝える。

瓦礫の下だけではなく、救助された人々、難を逃れた者たちにも当然のように生活はつづく。現実は、というよりも、そこに『厳しい』という形容詞をつけたほうがよいほどの事実が目の前に広がっている。厳しい現実、だ。

私はそのことをまざまざと思い知らされた。プライバシーのない避難所での生活、充分な水や食料の確保もままならない毎日。不満と苛立ちが広がり、それでも被災者には我慢と努力が強いられる。

そんな状態を理解していないのか、政治の鈍さには落胆した。口では立派なことを言っていても、党利党略、政局が頭から離れないようだ。いまだに遅れは取り戻せていないように見受けられる。着実に復興が前進するような策も提示されていない。

努力をしている者に必要なのは報われているという実感。それから、改善に向かっているという目に見える変化だ。そうでなければ努力を継続することはできない。

政治に身を置いている方々には、はっきりとした光を指し示してほしいと切に望む。

さて、最後に少しだけ『ガレキノシタ』の話に戻る。

物語は七つの短編に別れており、先にも述べたが、彼らは瓦礫を含めた様々な困難に立ち向かうことになる。恋愛、友人関係、家族との約束など彼らには瓦礫と同等の、いや、それ以上に気がかりなことがあった。

これは書き終わって思ったことだが、彼らは瓦礫の下で必死に生活をつづけることによって、恐怖や不安に打ち勝とうとしていたのかもしれない。童謡を歌うことや大切な人との会話を想起することと同じで、それが生きる希望となったのかもしれない。そんなことを感じた。

連載の時には瓦礫の下での物語だけを書いてきた。けれど、担当さんからの提案もあり、エピローグを書き加えた。助け出されたあとも生活はつづく、というわけだ。ある登場人物のその後、という感じで展開する。連載時に読んだことのある人も楽しんでいただければ幸いです。

※本特集は月刊ジェイ・ノベル2012年8月号の掲載記事を転載したものです。

【著者プロフィール】

山下貴光(やましたたかみつ)
1975年香川県生まれ。京都学園大学法学部法学科卒業。第7回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞し、2009年『屋上ミサイル』(宝島社)でデビュー。ほかの作品に『鉄人探偵団』『屋上ミサイル謎のメッセージ』(以上宝島社)ほか。